ヴィナール復興の立役者、ウォッチメーカー、Bernhard Zwinz(ベルンハルト・ツヴィンツ)のインタビュー記事を通して、彼の経歴、ヴィナールとの出会い、ブランド復興までの過程をご紹介いたします。
INTERVIEW WITH BERNHARD ZWINZ
ベルンハルト・ツヴィンツ インタビュー
(アメリカ、WRISTWATCH MAGAZINEからの抜粋)
あなたは、私が彼のマリン・クロノメーターのひとつを手に取ってみたこと、そして、ヴィナールもまた農家の出身であったこと、それで自然に興味が沸き上がったと言うことかもしれませんね。彼と私がたどってきた道に非常に多くの類似点があり、驚きました。手短に言うと、ヴィナールと同様、私もオーストリア人であり、ウォッチメイキングの経験をさらに深めるために、故郷を離れたことです。ただ私の場合は、ドイツとスイスでしたけどね。オーストリア、カールシュタイン(Karlstein)の技術学校(ウォッチメイキング部門)を優秀な成績で卒業し、私は、高級時計製作とコンプリケーションについてできるだけ多くを学びたいと切望していました。それらは、誰かから学ばなければいけないことでしたが、当時のオーストリアにはその手立てがありませんでした。ですから、卒業後、私はいくつかの会社、ジュネーブのロジェ・デュブイ(Roger Dubuis)とヴァシュロン・コンスタンタン(Vacheron Constantin)、そのあと、ミュンヘンのクロノスイス(Chronoswiss)で働きました。2001年は私にとっては重要な年でした。ヴァレー・ド・ジュウにあるフィリップ・デュフォーのアトリエで働き始めたのです。当時、彼の製作する時計はまさに登場したばかりで、私は3年半、「シンプリシティ」のアセンブルと仕上げを担当していました。
もちろん、ヴィナールと私は異なる世紀に異なるソースからのウォッチメイキングの経験を経て、異なる場所にたどり着きましたが、私たちの学習と見習い時代の背景、軌跡は同じです。さらにヴィナールが集中的に研究したのは、おもに科学的および航海目的における時計の技術自体にあり、ファッショナブルな時計の製作ではありませんでした。彼の作品は、ウォッチメイキングにおけるもっともピュアな形として私を驚かせました。私はヴィナールの全作品が私にとって非常に魅力的なものにしたのと同じようなやり方で、自分の好み、趣向を認識したと思います。
フィリップ・デュフォーのアトリエを去った後、何をされていたのですか ?
フィリップ・デュフォーのアトリエでの仕事は非常に楽しく、それは素晴らしい経験でしたが、私は、本当に様々な種類の時計、ムーブメント、トゥールビヨンのようなコンプリケーションに取り組みたいと思っていました。そのため、2004年に自分のアトリエであるレザテリエ・デ・ジュー(L’Atelier de Joux)を設立し、過去14年間、グルーベル・フォルセイ(Gruebel Forsey)、H. モーザー(H. Moser & Cie.)、ウルバン・ヤーゲンセン(Urban Jürgensen)、MB&FそしてMCTなど他のブランドの仕事をしました。私のワークショップは小規模ですが、新しいムーブメントのデザイン、プロトタイピング、あらゆる種類の手作業による仕上げ、トゥールビヨンとリピーターの組み立て、および考えられる限りのあらゆる種類のコンプリケーションに対応することができます。
このようなキャリアを経て、なぜ、今あなたはヴィナールに取り組もうとしたのですか ?
それは決して急いでやるべきことではありませんでした。それは、まずヴィナールの歴史と特許を調査し、存在した時計をカタログ化し、最初のムーブメントと将来的に計画された、いくつかのムーブメントを設計することから始まりました。私は、最初のムーブメントは、もしヴィナールが今日生きているなら、彼が誇りに思うようなものにしたかったのです。そしてそれは、全く新しいムーブメントです。私はすべてのパーツのデザイン、設計し、ヴィナールのアイデアを可能な限り組み込みました。パーツはすべて私の設計した仕様に合わせて、主に私の親友であるアンドレアス・シュトレーラー(Andreas Strehler)によって作られました。
もし、ヴィナールが当時、幅広く認識されていた人物だったとするならば、今日もっと知られていても良いのではないでしょうか ?
その背景には、いくつかの理由があると思います。今日の多くのコレクターは、かつてのウォッチメーカーが専門的な航海または科学的用途のための純粋な時計か、あるいはプロフェッショナル用や経済的ニーズに応じた一般向けの時計かのどちらかを選択しなければならなかったことに気づいていません。非常にまれなケースですが、ひとつのワークショップまたは個人による特殊なウォッチメイキングを見つけることがあるかもしれません。今日の誰もが知っているかもしれないピュアなウォッチメイキングの典型的な例は、おそらくジョン・ハリソン(John Harrison)でしょう。彼は公用の時計と、海の経度を見つけるためのクロノメーターだけではなく、自分と知人のためにいくつかのポケットウォッチを作っただけでした。極端な例はブレゲで、発明力と改良を重ねた作品でありながら、彼の時計のほとんどすべては、多くの非常に裕福な個人顧客のための排他性、ステータスを目的として作られました。
ヴィナールのポケットウォッチはほとんど残っていませんが、その作品はかなり落ち着いていて、計時を主な焦点とする「ツールウォッチ」のアイデアを維持しています。これは、彼の時計製作の大部分がマリン・クロノメーターに集中していたためであり、その多くはフランス海軍用または観測所および科学的用途向けに作られたものです。つまり、ヴィナールが「時計職人の中の時計職人」であると呼んだのは、このことによるものです。私が述べたように、これが、彼の作品と発明に対する私が抱いた魅力のもう一つの部分を形成するものなのです。
このようなキャリアを経て、なぜ、今あなたはヴィナールに取り組もうとしたのですか ?
それは決して急いでやるべきことではありませんでした。それは、まずヴィナールの歴史と特許を調査し、存在した時計をカタログ化し、最初のムーブメントと将来的に計画された、いくつかのムーブメントを設計することから始まりました。私は、最初のムーブメントは、もしヴィナールが今日生きているなら、彼が誇りに思うようなものにしたかったのです。そしてそれは、全く新しいムーブメントです。私はすべてのパーツのデザイン、設計し、ヴィナールのアイデアを可能な限り組み込みました。パーツはすべて私の設計した仕様に合わせて、主に私の親友であるアンドレアス・シュトレーラー(Andreas Strehler)によって作られました。
最初のヴィナール名義のリストウォッチは、外観、内部とも、まさに手首に巻くマリン・クロノメーターであり、ヴィナール作のクロノメーター No.80のデザインをそのまま採用したユニークなテンプを備えたムーブメントを搭載しています。このクロノメーターNo.80は175年以上前のものですが、洗浄と注油をすることで、どんなクォーツよりも正確に時を刻みます。飾り気もなくシンプルなデザインで、細部にわたって卓越したクラフトマンシップが発揮されました。私の個人的な感想ですが、今日ここにいて、腕時計の形の時計を突然見せられたとしましょう。そこで彼はおそらく、自分の作ったマリン・クロノメーターから直接インスピレーションを得た腕時計を作り始めると思うのです。そのように小さくて非常に正確なタイムキーパーは、彼の時代には知られていなかったでしょうし、一種の驚きでもあると思います。
もし、ヴィナールが当時、幅広く認識されていた人物だったとするならば、今日もっと知られていても良いのではないでしょうか ?
その背景には、いくつかの理由があると思います。今日の多くのコレクターは、かつてのウォッチメーカーが専門的な航海または科学的用途のための純粋な時計か、あるいはプロフェッショナル用や経済的ニーズに応じた一般向けの時計かのどちらかを選択しなければならなかったことに気づいていません。非常にまれなケースですが、ひとつのワークショップまたは個人による特殊なウォッチメイキングを見つけることがあるかもしれません。今日の誰もが知っているかもしれないピュアなウォッチメイキングの典型的な例は、おそらくジョン・ハリソン(John Harrison)でしょう。彼は公用の時計と、海の経度を見つけるためのクロノメーターだけではなく、自分と知人のためにいくつかのポケットウォッチを作っただけでした。極端な例はブレゲで、発明力と改良を重ねた作品でありながら、彼の時計のほとんどすべては、多くの非常に裕福な個人顧客のための排他性、ステータスを目的として作られました。 ヴィナールのポケットウォッチはほとんど残っていませんが、その作品はかなり落ち着いていて、計時を主な焦点とする「ツールウォッチ」のアイデアを維持しています。これは、彼の時計製作の大部分がマリン・クロノメーターに集中していたためであり、その多くはフランス海軍用または観測所および科学的用途向けに作られたものです。つまり、ヴィナールが「時計職人の中の時計職人」であると呼んだのは、このことによるものです。私が述べたように、これが、彼の作品と発明に対する私が抱いた魅力のもう一つの部分を形成するものなのです。
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